手塚治虫『ブッダ』を読みながら、人の死ついて考えてみた
死は悲しいものではないのかもしれない…それでも僕は、悲しまなかった 今回、『ブッダ』第2巻を読み心の奥にいつまでも残っていたのは、少年シッダルタ(幼き日のブッダ)の「死にたくない」という叫びでした。「生きたい!」「死にた […]
子供の頃から、目に見えない心や意識に興味を持っていました。20代になってはじめた合氣道で、心や意識が持っている可能性や影響力の大きさを体感し、そこにある原理原則の探究を合氣道を通して続けてきました。しかしあるとき武道や組織という枠組みに窮屈さを感じ、武道に興味がない人にも心や意識、人と人との間いにある関係性のしくみを知ってもらいたいと思い、合氣道の枠から飛び出して独自の活動をゆる~く続けています。そんな活動の中でよくお伝えしていることのひとつが、『形があって見えるものよりも、目に見えないものの方がとっても扱いやすい』ということ!このことはぜひ知ってほしいと思っています。
〜「悟り」は遠くではなく、認識という身近なとこにあるもの〜僕は、手塚治虫の『ブッダ』を手に取ることにしました。なぜなら僕は以前から、「悟り」という言葉に興味を持っているからです。生きることの痛みや苦しさ。思うようにならない現実や、抗えない定め。それでもなぜ人は生きるのか。何を信じて、どこへ向かって歩いていくのか。そんな問いの先に、「悟り」というものがあるような氣がしています。昔の僕は、悟りを“特別な人だけがたどり着ける境地”のように思っていました。僧侶や聖者のような、選ばれた人たちだけのもので、自分とは関係のない遠くの世界の話だと。でも『ブッダ』を読んでいると、そうではないと感じさせられます...
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死は悲しいものではないのかもしれない…それでも僕は、悲しまなかった 今回、『ブッダ』第2巻を読み心の奥にいつまでも残っていたのは、少年シッダルタ(幼き日のブッダ)の「死にたくない」という叫びでした。「生きたい!」「死にた […]
ばんびさんの投稿で「認識のズレ」について考えた時、宗吾さんのこの投稿を思い出しました。 「出来事そのものではなく、それにどんな意味を見出すのか。」 出来事そのものに囚われて、意味を見出すのを恐れていたことがあります。「恐れ」が私の認識なのかもしれないけれど。 宗吾さんの文章が、言葉のひとつひとつが腑に落ちて、スッと頭に入ってきました。 ここ数日、頭の中にあった言葉達が、全て繋がってまとまった感じです。 月日が経ち、私の認識を通して出来事を受け止めようと思えてきました。 宗吾さんが言われるように、結論を急ぐのではなく、穏やかな心で丁寧に問い続けたい。 考え続けることを続けていきたいと思いました。
同じ出来事でも過去の自分の認識と、今の自分の認識もズレていことがほとんど… 出来事には本来意味がなく、私たちがそこに認識という色を好きに塗っているだけなら、変わらない色や決められた色なんてものもないんだろうと思います。 今の私が今持っている認識が、ただあるだけ… その認識が変わることを面白がって眺めていたいなと、僕も思います。